
「美味しい」という言葉の不思議
「美味しい」。私たちが日常的に使うこの言葉は、実はとても複雑で奥深いものです。
昔、ある米菓職人の方とお話しする機会がありました。その際、印象的だったのは「美味しさには層(奥ゆき)がある」という言葉でした。表面的な甘さや塩味だけでなく、時間をかけて感じられる風味の変化、食感の微妙な違い、そして食べた後に残る余韻まで含めて、初めて「本当の美味しさ」になるのだと。
では、その「層(奥ゆき)」とは一体何なのでしょうか。
味覚科学から見える「美味しさの構造」
この疑問を解く鍵は、現代の食品科学にありました。食品科学の研究によると、私たちが「美味しい」と感じる体験は、舌で感じる五味(甘味、塩味、酸味、苦味、うま味)だけで構成されているわけではないことが分かっています。
まず重要なのが香りの役割です。オックスフォード大学のCharles Spence教授らの研究によると、私たちが「味」として認識している体験の多くは、実際には嗅覚による風味(フレーバー)によって構成されていることが分かっています。米を焼く際に生まれるメイラード反応による香ばしい香りが、私たちの脳に「美味しさ」の信号を送っています。
さらに、食感(テクスチャー)も重要な要素として注目されています。食品工学の分野では、同じ素材でも加工方法によって食感が変わり、それが味覚の知覚に大きく影響することが確認されています。米菓職人が焼き加減にこだわるのは、この食感が風味の感じ方を左右するからです。
時間が生み出す「風味の深み」
職人の技術をさらに深く理解するために、時間という要素に注目してみましょう。米菓製造において、時間は重要な要素の一つです。
素材の熟成については、米の貯蔵期間が風味に与える影響に関する研究があります。適切な期間貯蔵された米は、でんぷんの構造が変化し、より複雑な風味を生み出すことが示されています。これは、職人が素材選びに時間をかける理由の一つでもあります。
製造工程の時間についても同様の現象が見られます。急速に加熱するのと、じっくりと時間をかけて焼き上げるのでは、同じ素材でも異なる化学反応が起こります。低温で長時間加熱することで、アミノ酸と糖が反応してより多様な香り成分が生成されるというメイラード反応の研究結果もあります。
職人の技術が生み出すもの
ここで、人間の技術そのものに焦点を当ててみます。手作業の価値について、興味深い研究があります。機械製造と手作業で作られた食品を比較した実験では、手作業による微細な変化(圧力の変化、タイミングの調整など)が、最終的な食感や風味に影響を与えることが指摘されています。
これに関連して、職人の経験と感覚も科学的に注目されています。熟練した職人は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚を総合的に使って製品の状態を判断していることが、認知科学の研究で明らかになっています。温度計や計測器では測れない微細な変化を、五感を通じて感知しているのです。
「おいしさ」を言語化する技術
一方で、食品業界では近年、味覚や風味を客観的に分析・表現する技術が発達しています。
味覚の専門家による官能評価は、食品の品質管理において重要な役割を果たしています。訓練を受けた専門家は、一般の人では気づきにくい風味の違いや変化を識別できることが、食品科学の研究で確認されています。
さらに進んだ手法として、風味プロファイル分析という技術があります。この手法では、食品の持つ複数の風味成分を数値化し、視覚的に表現することができます。これにより、「なんとなく美味しい」だった感覚を、より具体的な言葉で表現することが可能になります。
文化と記憶が織りなす味わい
科学的要素だけでなく、美味しさには文化的・心理的要素も深く関わっていることが分かってきました。
記憶と味覚の関係について、東京大学の研究者らによる神経科学の研究では、過去の体験や記憶が現在の味覚知覚に影響を与えることが示されています。伝統的な製法で作られた食品を「美味しい」と感じるのは、それが私たちの文化的記憶と共鳴するからです。
また、環境と味覚の関係も注目されています。同じ食品でも、食べる環境や状況によって味の感じ方が変わることが、感覚心理学の実験で確認されています。
五感で感じる総合体験
これらの研究を踏まえると、現代の食品科学では、「美味しさ」を単一の感覚ではなく、五感すべてが関わる総合的な体験として捉える視点が広がっています。
視覚的要素も味覚に影響を与えます。オックスフォード大学のSpence教授らの研究では、食品の色や形状が私たちの味覚期待を形成し、実際の味覚知覚にも影響を与えることが確認されています。
聴覚的要素については、Spence教授らの研究で、食べる際の音(咀嚼音など)が食感の知覚や満足度に影響するという報告があります。
美味しさの本当の意味
こうした科学的知見を踏まえると、職人が語る「美味しさの層(奥ゆき)」とは、単一の味ではなく、複数の感覚要素が時間をかけて複合的に作り出す体験のことを指しています。
優れた米菓が持つ「深み」や「奥行き」は、素材の選択、製法の工夫、時間をかけた熟成、そして職人の技術と経験が組み合わさって初めて生まれるものです。
それは、単に「甘い」「しょっぱい」という表面的な味ではなく、食べる人の記憶や感情にも働きかける、より豊かな体験なのです。
私たちが何気なく使う「美味しい」という言葉の背後には、このような複雑で精緻な世界が広がっています。
この『美味しさの層』こそ、私たちの米菓鑑定士と職人たちが日々追求しているものに他なりません
次回お気に入りの食べ物を口にする時、ぜひ立ち止まって、その「美味しさの層(奥ゆき)」を感じてみてください。新しい発見があるかもしれません。
参考文献
- 佐藤成美『「おいしさ」の科学 素材の秘密・味わいを生み出す技術』講談社ブルーバックス、2018年
- 伏木了『だしの神秘』朝日新書
- 佐藤秀美『おいしさをつくる「熱」の科学』柴田書店
- 栗原堅三『うま味って何だろう』岩波ジュニア新書
- Spence, C. (2015). “Just how much of what we taste derives from the sense of smell?” Flavour, 4, 30. https://doi.org/10.1186/s13411-015-0040-2
- Chinnakkaruppan, A., Wintzer, M.E., McHugh, T.J., & Rosenblum, K. (2014). “Differential Contribution of Hippocampal Subfields to Components of Associative Taste Learning.” Journal of Neuroscience, 34(33), 11007-11015.